赤い惰性日記 / Red Inertia’s Diary

徒然なるままに惰性で😎

愛にすべてを

Somebody To Love

 


Queen & George Michael - Somebody To Love (Freddie Mercury Tribute Concert) - YouTube

 

 ジョージ・マイケルが、『フレディ・マーキュリー トリビュート・コンサート』で披露したこのパフォーマンスは圧巻だった。1992年4月20日、ロンドンのウェンブリー・スタジアムに集まった錚々たるメンバーの中で、彼ほどこの日輝いていた人はいなかったように思う。この日の模様は、後に"FIVE LIVE"として、EP化されている。

 

Five Live

Five Live

 

 

ジョージ・マイケル George Michael

1963年6月25日

 イングランドへ移民してきたギリシャキプロス人の父キリアコス・パナイオトゥと、ユダヤイングランド人の母レズリー・アンゴールド・ハリソンとの間に、ヨルゴス・キリアコス・パナイオトゥとして産まれた。姉はふたり、家族の末っ子で内気な少年だったそうだ。

子供のころ、僕が最も恐れていたのは、自分のとてつもない野望が、鏡に映って見える少年の手には届かないんじゃないかということだった。だから、その気になれば世界中が愛することができるような人物、僕の夢を実現して僕をスターにしてくれる誰かを、(素晴らしい友だちというイメージで)創り出したんだ。僕は彼をジョージ・マイケルと呼んだ。

『自伝 裸のジョージ・マイケル』(CBSソニー出版 著:ジョージ・マイケル、トニー・パーソンズ 翻訳:沼崎敦子)より

 

 キプロス紛争から難を逃れるため、そして身を立てるためイングランドへと移住した父はレストランを経営し、キプロスで暮らしていた親族をイングランドへ呼び寄せ彼らに生活の場を与えた人物だった。決して裕福とは言えない暮らしではあったが、家族はお互いを支え合って慎ましやかに暮らしていた。

 ヨルゴスに転機が訪れたのは、1975年、ブッシー・ミーズ・スクールへと入学した、まさにその日のことだった。教師が新しい少年の世話を誰に見させるか考えていたときのこと。

 「そいつは新入り‍?」

 ヨルゴスより5ヶ月早く産まれていたひとりの少年が声をかけた。アンドリュー・リッジリーは後年こう振り返っている「そいつを俺に寄越せ」。後にWHAM!を結成することになるふたりは、こうして出会った。

 彼らが少年時代を過ごした時代の英国は「ヨーロッパの病人」と揶揄されるほど不況で、人々の娯楽といえば、ラジオから流れる音楽(それもビートルズの去った後、レッド・ツェッペリンアメリカでのツアーを終えて少しの休息をとっていた頃)ベイ・シティ・ローラーズロッド・スチュワートウィンザーデイビス&ドン・エッスル、そしてクイーンだった。テレビでは『モンティ・パイソン』や『ドクター・フー』、映画では『王になろうとした男』、ザ・フーの『トミー』もこの年の作品だ。こうして当時の文化を眺めてみると決して暗い話題ばかりではなかったが、それでも66年のスウィンギング・ロンドンほどの活気はなかった。彼らが知り合った2年後には、財政破綻のため、国際通貨基金による援助を受けるにまで至った。

 しかし、サッチャー政権発足後、フォークランド戦争での勝利、チャールズ王太子とダイアナ元妃のロイヤル・ウェディングが1982年に起こると、英国はかつての威信を(表面的には)取り戻した。ポップシーンを中心に享楽的な栄光の日々が戻ってきたのである。

 

「壁」を乗り越えて

 ジョージ・マイケルが自分のセクシュアリティを公に告白せざるを得なくなったのは、1998年のことだ。これに関してあえて、今回は触れないが、「ゲイだ」と認めてからの彼はそれまで以上に、積極的に社会活動の幅を広げている。性的少数者であることを恥じる必要はないと明言した彼の功績は、21世紀の現在、多様性を認め合う世論の形成に大きく貢献したと言えるだろう。

 しかし、彼がそこへ至るまでの間に経験したことは、あまりにも苦痛に満ちていた。1991年1月に行われた第2回ロック・イン・リオに参加した彼は現地でひとりの若いデザイナーと知り合う。アンセルモ・フェリパという男性で、彼は同性愛者だった。ふたりは恋に落ちたが、それは当時公に語れるものではなかった。

 だが、先に彼の音楽キャリアを振り返っておこう。アンドリューたちと共にWham!を結成し、紆余曲折を経ながらも1981年にデビュー。瞬く間にブリティッシュ・ポップのシーンを席巻した。しかし、マネージングの方向性、自身の政治的な見解を巡って意見が対立したジョージは1986年に解散を決意。同年、敬愛するアレサ・フランクリンとデュエット' I Knew You Were Waiting (For Me) 'を発表し、ソロキャリアをスタートさせた(ただし、Wham!在籍時に発表した' Careless Whisper 'は国によっての取り扱いに違いはあるが、ジョージのソロとして発表された曲である)。翌1987年10月30日には、アルバム"FAITH"を発表。このアルバムは全世界で2500万枚以上のセールスを記録し、アメリカのビルボード誌では白人の発表したアルバムとして、史上初めてR&Bチャートで1位を獲得したアルバムでもある。ロングヒットとなり1989年にはグラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞した他、数々の賞を受賞している。ファン投票で選ばれるアメリカン・ミュージック・アウォードでは、「ソウル・R&B部門」においてフェイバリット・アルバムに選ばれ、彼自身も「フェイバリット・ソウル・R&B・アーティスト」に選ばれている(同時にロック・ポップ・アーティストにも選ばれている)。彼は音楽が人種を超える物だと示した反面で、物議を醸した。グラディス・ナイト、パブリック・エナミースパイク・リーディオンヌ・ワーウィックらは、こぞってこれを批判する。「なぜわざわざ『白人に』黒人音楽の賞を与えるのか」というものだ。

 余談になるが、ジミ・ヘンドリックスはかつて、自身の楽曲をR&Bの放送局がまったくオンエアーしないことに関して尋ねられたときこう答えていた。

俺たちの音楽は連中にとってはR&Bじゃないのかもな。連中の考えてるR&Bじゃないのかもしれない。でも気にはしてないよ。誰にでもチャンスは訪れるものだし。

『Rockin'on 2018年12月号』(ジミ・ヘンドリックス、ジェイコブ・アトラスによるインタビュー 翻訳:Satomi Kataoka)より

rockin'on 2018年12月号

 

 人種同士の間にある「壁」がいかに根深い問題であるかは、あえてここで言及する必要はないだろう。しかし、ジミにせよ、ジョージにせよ、彼らは音楽という表現を用いてこれを打破しようとしたミュージシャンであった。

 次作となる" LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL.1 "は日本語にすると「偏見なしに聴いてくれ」である。1990年9月30日に発売されたこのアルバムで彼は、スティービー・ワンダーのカバー曲だけでなく、ローリング・ストーンズ、さらにはポール・マッカートニーへ捧げた曲など、彼の音楽遍歴の中で通過した「黒人音楽」、「白人音楽」への敬意を示しつつ、その融合を目指した名盤である。タイトルからも分かるだろうが、続編を構想していたものの、セールスの上では全世界で800万枚と、前作ほど売れなかった。これは、当時、所属していたレコード会社とプロモーションの方法で対立し、その後ソニー(SME)はアーティストをアーティストとして扱わない。こんな会社ではクリエイティヴな仕事は出来ない」として、SMEを相手に訴訟へと発展する。

 

 さて、ブラジルでの恋物語について話を戻そう。こういった諸問題を抱えていた彼にとって、アンセルモとのロマンスは彼にすれば最大の癒しだったのかもしれない。当時世界中の女性ファンの黄色い声援を受けながらも、本当に愛せる人と知り合えたことで、私生活は幸福で輝かしい未来が待っていると思われた。そこには、同性愛に対する「壁」が依然として大きくそびえ立っていたが。

 

悲劇

 そんなジョージとアンセルモの間に悲劇は、関係が始まって時をおかずに訪れた。以下は以前Twitterで、当時の心境を後年のインタビューで語った物の拙訳を再編集したものである。

覚えているよ、彼が家を出ていくときのこと、今に至るまでね。空を見上げて僕はこう言った'ダメだそんなこと、僕にしないでくれ'。

確か20...27歳でもうすぐ28歳になろうとしていた頃だけれど、その時期っていうのはさ、人生というものは、愛されるためにあるものだ、そう思うものだろ‍?

アンセルモはブラジルでテストを受けたんだ。僕は家族とともにクリスマスを迎えるため実家に帰ったんだけど...クリスマスを祝うテーブルについて...テーブルを囲む人達は何も知らないんだ、僕のパートナーのことについて。僕が愛した男性が末期の病に侵されているということも、そしてまた僕自身が彼と同じく末期の病かもしれないってことすら知らないんだ。あのクリスマスは、僕の人生の中でおそろしく、最も暗くて、おそろしいものだった。

 そして、そんな彼に追い打ちをかけるように、ある人物の訃報が彼の耳に入ってきた。

僕の広報担当者から電話がかかってきて、僕にこう告げた「フレディ・マーキュリーが亡くなった」と。もちろん、彼がHIVで亡くなったのは知っての通りだろ(訳者注:医学的死因についてジョージはこのときに触れていない)‍。

僕はずっと泣きじゃくったよ。広報担当の彼女は、僕がフレディのために泣いたのだと思っていただろうね。

もちろん、フレディが亡くなったことは本当に悲しかった。けれどね、僕は同時に全く別のことを思って泣いてもいたんだよ...僕のパートナーのこと、そして僕自身もHIVだという可能性があったからね。

僕は本当に打ちのめされていた、彼が末期の病にかかっていたから。ただただ、打ちのめされていたんだ...

 "FAITH"、"LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL.1"の世界的成功、当時UK音楽シーンで最も人気を博していた彼に『フレディ・マーキュリー トリビュート・コンサート』への依頼がきたのは必然だろう。彼の胸中を締め付けている苦悩など、誰も知る由はなかったとしても。

フレディのトリビュートでは、あったけれど、秘密の誓いも込めていたんだ。

あのパフォーマンスには誇りを持てたよ...実はアンセルモも観衆の中にいたんだ。だから、あの場でフレディ・マーキュリーに対して敬意を表したけれど、同時にそれはアンセルモのための祈りでもあったわけさ。

でもね、内心、死にたい気分だった。だから、あのパフォーマンスは僕の中にあった様々なことをひとつに纏めあげてくれたような物だったと言えるね。

僕は圧倒されてしまったんだ。僕が子どもの頃から崇拝してきた人の歌を、僕が生涯で初めて巡り会ったパートナーがこれから背負うであろう経験の末に亡くなった彼の曲を歌うことの悲しみにね。それは...ただただ、圧倒的だったね。

 

 

 先日相互フォローの方とのやり取りで確認したところ、Youtubeにて上記のインタビューをアップロードしていた動画が削除されていた。これは、元々著作権保有者の投稿したものではなかったので、当然の対応だ。

 なおのこと、SONYミュージックには、彼も直接関わっていたドキュメンタリー映画を発売して欲しいと切に願っている。

 

愛にすべてを

誰か僕が愛することの出来る人を探してくれないかい

誰だっていい、どこだっていい、誰だっていい、見つけておくれよ僕が本当に愛せる人を

'Somebody To Love' (作詞作曲:フレディ・マーキュリー)より

 ジョージ・マイケルはその後、HIVテストの結果、陰性であることが判明したが、1992年、彼が初めて心の底から愛せる人であったアンセルモ・フェリパはAIDSによる合併症、脳内出血でこの世を去った。

 

 『フレディ・マーキュリー トリビュート・コンサート』に関するジョージ・マイケルの話はここまでだ。それ以降の彼の活動に関してはまた別の記事で取り上げたい。

 私が以前寄稿させてもらうことになった『ROCKJET(ロックジェット)VOL.76』は、あくまでも映画『ボヘミアン・ラプソディ』とクイーンの特集であったので、ジョージについては(比較的名前を出してはいるが)それほど多くを語ることが出来なかった。ブログという形ではあるが、彼のパフォーマンスが何故あんなにも素晴らしいものであったのか、ここで改めて補足して記しておきたい。

 

 最後に「公益財団法人エイズ予防財団」のリンクを貼っておこう。映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観てクイーンのファンになったという方、また僭越ながら今回の記事を読んでいただき、HIV/AIDSに対して何か行動を取りたいと思っていただけた方がいれば幸甚だ。

 寄付金1000円以上でピンバッチかマグネットを返礼として、送ってくださる。
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 11月24日フレディ・マーキュリーの命日から世界エイズデーまでの期間レッドリボンを着けるようにしていたが、2017年からは「エイズ予防財団」から送って頂いたこのピンバッチを12月25日のクリスマスまで着けるようにしている。その理由は2016年のクリスマスに起こった悲劇に由来するが、それはまた改めて書こうと思う。

 

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