赤い惰性日記 / Red Inertia’s Diary

徒然なるままに惰性で😎

『カノホモ』、『御徒町カグヤナイツ』を読んで

 浅原ナオト著、『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』、『御徒町カグヤナイツ』を読んだ。

 『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』、これはNHKで放送されている『腐女子、うっかりゲイに告る』の原作小説である。2018年に映画『ボヘミアン・ラプソディ』が公開され、クイーン人気が高まる中で放送されBGMがクイーンを使っているということで話題になっがたが、原作者のツイートを確認すると、件の映画公開前からドラマ化の話が出ており、タイミングとして偶然重なったものである。また、これは元々、カクヨム内で連載されており、2018年2月21日に角川書店から単行本化されたものだ。

 完全にお節介ではあるが、いわゆる「便乗目的」でドラマ化されたわけではないことを、著者、出版社、そしてNHKの名誉のために明言しておこう。ただ、いい具合に波に乗れたこと、その余波が私のところまで寄せてきたことは僥倖であった。


彼女が好きなものはホモであって僕ではない - 書籍化・映像化・ゲーム化作品

 

『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』

彼女が好きなものはホモであって僕ではない

彼女が好きなものはホモであって僕ではない

 

 これについては、改めて『腐女子、うっかりゲイに告る』とあわせて詳細に書こうと思うのだが、読後感として、思い出したのはトーマス・マンの『トニオ・クレーガー』だった。

 『トニオ・クレーガー』はともすれば、「芸術と市民性の対立」という二元論的な文脈で語られがちだが、あれを初めて読んだのは自分が高校生の頃で、トニオに対して自分自身をそして著者のトミーに対して大きな共感、それ以上に自己との同一化をはかるくらい、感情移入したものだ。ある程度の教育を受け、教養は持っていたが、思春期の自分にとって、それは「芸術と市民性の対立」よりも生命の輝き、羨望、憧憬、そして究極的には愛の方にこそ惹かれた。

 『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』には、どこか『トニオ・クレーガー』に似たものを感じた。文体の品位、典雅さ、ライトモチーフの効果的な用法では『トニオ』に軍配を上げざるを得ないが、その『トニオ』に欠けていたもの、若さ故の粗雑さ、外へ向けた敵意いっぱいの野蛮さ、そして突拍子もないほどに直情的で痛々しいほどに純粋な眼差し、これについては『カノホモ』に軍配を上げたい。では、何が似ていたのだろうか。きっと、トニオも純も高校生の自分そっくりだったのだろう。矛盾や葛藤の中で、エロースとタナトスそれぞれの誘惑に引っ張られていたあの時期特有の脆さ、危うさだろう。

 そもそも、トミーと浅原ナオト氏にはそれぞれ別の視点、背景があるので、上記の感想はあくまで、私個人の感想でしかないことも記しておこう。

 

御徒町カグヤナイツ』

御徒町カグヤナイツ

御徒町カグヤナイツ

 

 これは、前作から格段にドラマトゥルギーの点で巧みさを増している。仔細は省くが御徒町(周辺)という、限定された空間で起こる思春期の子どもたちの冒険譚は、前作の舞台の匿名性を超えて、より具体的かつ物語への没入感を平易にしてくれている。それは、単純化といった稚拙なものではなく、「街」そのものが持つ「有機的」な側面が、物語の中でより濃密に活写されることにより、舞台背景を(実際にあの周辺エリアに行ったことがなくても)分かりやすくしてくれている。さらに、その「有機的」な環境が主人公に与える影響という点でも、前作よりはるかに効果的に働いている。

 個人的にトミーが好きな理由は『ブッデンブローク家の人々』や『ヴェニスに死す』、一連の『ヨゼフとその兄弟』など舞台となる「街」が単に舞台装置であるだけでなく、明示的、暗示的、ときに能動的に物語へ介入してくるからだ。

 そういった意味で、個人的にこの『御徒町カグヤナイツ』は非常に親しみを持って接することが出来た。詳しくは書かないが、中には人によってグロテスクと感じるエピソードもあるので、それは人によって好みが別れるところではあるだろう、ただ、「生々しさ」という意味でいうなら過不足ない。

 

基調和音

 さて、2作を読み終えて、このふたつに共通している基調和音は何かを考えてみた。

  • 音楽
  • 家族愛
  • 社会への反発
  • 和解

 音楽というのは、『カノホモ』ではクイーン、『御徒町』ではブルーハーツが背景音楽として常に流れている。これは、能動的に物語へと介入してくるわけだが、正直に私見を述べると『カノホモ』では能動的過ぎると感じた。『御徒町』では、はじめ受動的な形で主人公の耳に流れ込むようになり、物語後半では前回よりもむしろ能動性が自然にまた必然的な形で物語の中へ溶け込んでいる。

 家族愛、これははじめ、「母性」と書こうとしてやめた。主人公の母は、社会的、経済的境遇が比較的似ていても完全に同じではない。ただ、主人公である息子へ向ける眼差しは愛に満ちていて、それ故に理解出来ないものへの葛藤が前作では描かれていた。2作目ではこの葛藤が、むしろ主人公の側へと移っていたように思う。では何故、「家族愛」にしたのかというと、父親の存在、もしくは不在が思春期の登場人物たちにとって、「母性」と同等に人格形成の上で必須だったからだ。これは、和解にも関わるので、また後述する。

 社会への反発、これは少し内容について触れざるを得ないが『カノホモ』の主人公は家族を持つ中年男性と不倫関係にある。この場合の社会とは、同性愛に対して不寛容であり、偏見を持った社会のことでありそれに対する反発である。対して、『御徒町』で描かれる社会とそれへの反発は登場人物たちそれぞれが生まれ育った家庭環境、そして中学生が無条件に感じるルサンチマンに起因している。前者の主人公は高校生、後者の主人公は中学生ということもあるので単純にまとめたくはないのだが、「思春期らしい対立」であると言っていいだろう。

 さて、和解、である。これは、和音の中でも主旋律を担っていると言ってもいいかもしれない。『カノホモ』の和解は三浦さんを中心に多様性を認め合い、それどころか、主人公の純自身が内的に抱えている自己矛盾と向き合い、周囲に背を押される形で自分自身とも、また社会(あくまで彼の周囲の社会)とも和解していく。『御徒町』では、月のお姫様ことノゾミが中心となってヒロトたち騎士団の面々が、それぞれに抱えている「何か」と対峙し、反目し合いながらも和解の道を模索していくのだ。先述した家族愛もまたその和解の中に含まれている。

 

月が綺麗ですね

 いまさら説明するまでもないだろうが、夏目漱石が残した言葉と言われている。両作の舞台として、不忍池が出てくる。不忍池は何も漱石の作品だけに出てくるわけではないし、鴎外も川端康成も描いている。ただ、『御徒町カグヤナイツ』を読み終わったあとで、彼を思い出したのは、別れた妻とよく月を見上げてはこの言葉を交わしていたからだ。

 月というと、どうしても夜の煌々と光るそれを思い浮かべるだろうけれど、あの衛星は晴れ渡る快晴の昼ひなたに薄い灰色がかった姿を見せる時がある。私と妻だった女性との関係はもう終わったことなので、感傷的になることはないが、夜の煌めいた月とは違う昼の月を見かけるとき、私はそれでも彼女への愛が不滅だと思う。それは、よくは見えなかったとしても確実にそこにあるのだ。たとえ、我々の人生に交点がこれから先になくても構わないし、いやむしろなくて良い。ただ、『御徒町』は、個人的に戻れない昔日にほんの少し後ろ髪を引かれるような作品で、実に愛おしかった。

 

最後に

 『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』、『御徒町カグヤナイツ』、まだ自分自身の思春期だった頃の思い出、また著者の浅原ナオト氏の表現についての詳細な感想を語り尽くせてはいないのだけれど、いつか改めて個別に書こう。それぞれの作品に何を感じるのか、どう考えるのか、それはきっと読者の方々によって全く違うだろう。

ここに書いたのも、しょせん私見だ。